【HipHop】ヒップホップとは。起源と歴史を辿る【徹底解説】

このページでは、海外メディアなどの様々な情報を元に、「ヒップホップがどこから来て、どのようにして出来たか」という “ヒップホップの創世記” について詳しくまとめていきます。

凄く長いので、サクッと簡単に知りたい人は「目次」を読めば分かるようにしていますので、ぜひそちらをご覧ください。それでは行きましょう。

ヒップホップとは

文化の総称である

Hip Hop(ヒップホップ)とは、1970年代にアメリカのニューヨークにあるブロンクス区で発生、または派生した独自の“文化”を表した言葉になります。

ヒップホップの誕生に大きく関わった人物として、『クール・ハーク』『グランドマスター・フラッシュ』『アフリカ・バンバータ』の3人が挙げられ、彼らは「ヒップホップの創始者」「ヒップホップ3大偉人」と呼ばれています。

ヒップホップ文化の始まりは、1973年に『クール・ハーク』が、ブレイクビーツを披露したことが発端とされ、「ヒップホップ」という言葉と概念は、1974年11月12日に『アフリカ・バンバータ』が提唱しました。

ヒップホップは、全部で9つの要素で構成されていて、その中で最も重要視されている4つの要素を “ヒップホップ四大要素” と呼んでいます。

ヒップホップの構成要素

三大要素ラップ/ブレイクダンス/グラフィティ
四大要素ラップ/ブレイクダンス/グラフィティ/DJ
五大要素ラップ/ブレイクダンス/グラフィティ/DJ/知識
九大要素ラップ/ブレイクダンス/グラフィティ/DJ/知識/ファッション/ヒューマンビートボックス/言語/起業精神

ここからの解説では、まずヒップホップを生んだ『ブロンクスの歴史的背景』から始まり、ヒップホップ3大偉人に影響を与えたとされる『ヒップホップ創成期の中でも最も初期の創始者と言われる人物をサラッとご紹介』したのちに『ヒップホップの創世記からその終わりまで』を記していきます。

それでは、まずブロンクスという街の歴史をザッと振り返っていきましょう。

1639年以前〜1920年
ブロンクスの歴史的背景

白人移民の時代、第一次世界大戦の出兵者を讃えるパレードとしてブロック・パーティが誕生する

ブロンクスってどんな街なのでしょうか。

1639年以前、アメリカのニューヨークにあるブロンクス周辺には先住民族であるワッピンガー族というインディアンが長らく暮らしていたそうです。

それが1639年頃からヨーロッパによって植民地化され、ユダヤ人を中心にイタリア人やアイルランド人などの白人が多数移住してくるようになります。それによって移民が人口の多数を占める様になったのです。

ヒップホップ創成期のブロンクスって、黒人が多く住んでいるイメージじゃありませんか?そうなんです、なんとこの頃は、白人の方が圧倒的に多かったのです。

そんなブロンクスからヒップホップを生んだブロック・パーティ>が誕生したのは、1914年~1918年に繰り広げられた第一次世界大戦がきっかけ。ブロンクスでは第一次世界大戦に出兵した区民を讃えるために、区(ブロック)の全体をロープで閉鎖して、愛国歌を歌いながらパレードを催すようになります。これが最初期のブロック・パーティだそうです。

1920年〜1970年

白人の街から黒人の街へ、ブロックパーティが祝賀会に変化する

1920年~33年にかけてはアメリカ全土で禁酒法が発令され、これによって密売人とギャングが横行し、治安が急激に悪化します。これによってブロンクスの人口の多くを占めていた白人移民は徐々に郊外へと脱出していくことになります。

で、その空いた席を埋めるように来たのが、プエルトリコやドミニカからの移民、そしてアフリカ系アメリカ人といった黒人だったわけです。そう、白人の街から黒人の街へ入れ替わったのはこの頃。禁酒令で治安が悪化した事がきっかけだったんですね。

第一次世界大戦後に起きた住宅ブーム。これによって大規模開発されたブロンクスの街でしたが、1960年に入るとその街は急激に劣化し荒廃しはじめます。大家が所有権を放棄したり、保険金目的で自分の持ち家をギャングに放火させたりする事案が頻繁に発生し、特に酷かったサウスブロンクスでは、毎晩3~4件もの火事が起きる有様に。そして1970年代になる頃には、まるで空襲を受けた後のようなボロボロの街へと変貌してしまうのです。

ギャングが街を徘徊し、凶悪犯罪は日常茶飯事、貧困で街は痩せ細り、ドラッグが蔓延した当時のブロンクス。ただ、そんな中でも多くの人々は絶望していませんでした。

この頃に開催されていたブロックパーティでは、独立記念日を祝ったり、人気映画の上映開始を祝ったり、新たな住人を歓迎したりと、何か嬉しい出来事があれば開催する “身近で楽しいパーティ” へと変化していました。

これらのパーティは、地方当局への許可を得ずに開催していたので、違法ではありましたが、当時の警察は「必要な行事」あるいは「取り締まると大きな反発を買うことになる」といった理由などで目をつぶっていたそうです。

と、ここまでがブロンクスの歴史的背景で、いよいよ、ここからがヒップホップ創成期編となります。

1970年
ヒップホップ誕生の少し前

ピート・DJ・ジョーンズらがヒップホップの偉人たちに影響を与える

ヒップホップ創成期のもっとも初期に活躍したDJであるPete DJ Jones(ピート・DJ・ジョーンズ)が、ノースカロライナ州ローリーからニューヨークに越してきたのは1970年。彼が31歳の頃です。

ブレイクビーツは1973年にクール・ハークによって発明されていますが、実は音楽メディア「Tha Foundation」や「Redbul music」のインタビューで、ピート・DJ・ジョーンズは「69年か70年には2枚のレコードを使ってブレイクを延長していた」と証言しています。つまりこの証言が確かであれば彼はクール・ハーク以前に2枚の同じレコードのブレイクを繋げて演奏した最初の人物と言えます。

しかし、それはブレイクビーツと呼べる様なものではなく、単にブレイクを延長した程度だったとされています。

ブレイクを延長した理由については「レコードの最高の部分はブレイク部分にあります。それは人々を踊らせる部分です。一方のターンテーブルでブレイクを再生し、もう一方のターンテーブルでも同じブレイクを再生していました。3時間続くパーティーでDJするには曲を延長させることも必要だったんです」と、述べています。

彼は主にジェームス・ブラウン、ピープルズ・チョイス、BBキング、ジョニー・テイラー、ファットバック・バンドなど、ファンクやブルース、ソウル、R&Bなどのジャンルを選曲し、ディスコ系DJとして活動していました。当時はヒット曲が少なく、同じ曲を一晩に何度も何度も流すのが当たり前だったそうです。

ピートが使用していたミキサーは、バッテリー駆動でキューイングシステムのないソニーMX-12マイクミキサー。携帯用の懐中電灯でレコードの溝を読んでいたそうです。今の時代では考えられませんね。

ちなみにピートは自分がDJを始めた頃のことについて「ダウンタウンの黒人ストレートの人々にとってディスコの始まりだったと思う」とも語っています。それまでのディスコユーザーはゲイが主流でしたが、70年代からストレートにも浸透していったわけですね。

MCもこの頃から存在していたようで、ピート・DJ・ジョーンズをはじめ、多くのDJは自分でMCを担当していたそうで、曲の紹介や日常会話的なものなど、アナウンス程度のMCがメインでした。ヒップホップのラッパーが誕生するのはもう少しあとです。

グランドマスター・フラワーズ

ピート・DJ・ジョーンズと並び、ヒップホップの最初期に活躍したDJの1人であるブルックリン出身のDJ Grandmaster Flowers(グランドマスター・フラワーズ)は、レコードを MIX – ミックス した最も初期のDJの1人であり、グランドマスターフラッシュやアフリカバンバータなど、ヒップホップの先駆者たちに影響を与えた1人とされています。しかし残念ながらフラワーズについてはあまり文献が残っていません。

というのもフラワーズは、70年代後半になるころ、クール・ハークやグランド・マスター・フラッシュなどの若いDJ達に追い抜かれ、追いつけないことに気付き、ドラッグに溺れ、薬物依存症になり、シーンから廃退するからです。フラワーズに影響を受けたと公言していたグラフィティアーティストのFab Five Freddyは、90年代にMTVの撮影中にレコード店の外でホームレスになり物乞いをしているフラワーズの姿を見かけているそうです…悲しいですね。フラワーズは1992年に亡くなりました。

グラフィティ文化が誕生

1970年にもなると、すでに<グラフィティ>の文化は芽生えていますが、グラフィティを落書きからアートに変化させた最初期の人々や経緯などは不明です。ただ、71年にはクール・ハークを含めたブロンクスの若者らが仲間を集めて「クルー」を作り、グラフィティ活動をしていたことが証言されています。

当初のグラフィティは単なる落書き程度ものでしたが、70年に入ると急速にアート性を帯び、独自の文化を築いて行きます。グラフィティ文化が最高潮に達するのはもう少しあとのお話です。

クール・ハークがDJを開始

「カッコいいヘラクレス」という意味を持つKool Herc(クール・ハーク)ことClive Campbell(クライブ・キャンベル)は、1967年にジャマイカからウエストブロンクスに引っ越してきました。体格の良さから「ハーキュリーズ(ヘラクレス)」というニックネームで呼ばれていたそうです。

1970年後半からDJを始めた彼が「クール・ハーク」というストリート・ネームを使い始めたのもこの頃ですが、当時はDJよりもグラフィティの方に強い興味を持っていた様で、1971年からはEx-Vandalsというクルーに入りグラフィティを開始しています。

アフリカ・バンバータがDJを開始

アフリカ・バンバータことケヴィン・ドノヴァン(Kevin Donovan)は、「ヒップホップの父」「エレクトロファンクの父」「マスター・オブ・レコード」「ヒップホップ文化のアーメン・ラー」など、数々の異名を持ちます。

1957年4月17日サウスブロンクスに生まれた彼は、両親の影響で正義感が強く、音楽好きで、バンバータもこの頃からコミュニティセンターなどでパーティを開いていたそうです。ロック、R&B、アフリカンサウンド、ラテン、カリプソ、クラシックなど、レコードコレクターだった母の影響で幅広いジャンルのレコードをプレイしていました。

彼は戦争映画も大好きで、特に1964年に公開されたイギリス軍とズールー族の戦いを描いた映画『ズール戦争』が大のお気に入りです。戦争映画から戦うことの勇気や意義を教わったと言います。ちなみに「アフリカ・バンバータ」という名前は、ズールー族の首長の名前を取って付けられたそうです。

のちに彼はブロンクスのギャング「サベッジ・セブン(のちにブラック・スペードに改名)」に加入し、すぐに司令官に昇格します。そしてエリア拡大を任命された彼は、拡大の為に“別エリアのギャングと関係を深くする必要がある”と考えました。そして彼は、別エリアのギャングとの摩擦を恐れず果敢に接触して関係を深め、次々と仲間に引き入れていったそうです。その結果、サベッジ・セブンはニューヨーク市内で最大のギャング集団になります。

アフリカ・バンバータは音楽の才能だけでなくて、オーガナイズ能力やリーダーシップの才能にも長けていたんですね。

1973年
ヒップホップ文化がスタート

クール・ハークが『ブレイク・ビーツ』を発明 、ブロックパーティが進化する

ヒップホップに欠かせない『ブレイクビーツ』と『音楽に特化したブロックパーティ』を始めた先駆者の1人が『クール・ハーク』だと言われています。

まずブレイクビーツが誕生した時の物語から見ていきましょう。

1973年、当時のDJはと言うと、スクラッチなどのDJテクニックは存在せず、ただ単にレコード(主にディスコ)を選曲して流すだけの「ディスクジョッキー」でしたが、クール・ハークはそのDJ文化に革命を起こしました。

ある日、ハークはダンスの上手いダンサー達が曲のブレイク部分でしか踊らないことに気付き「どうにかブレイク部分を延長できないか」と考え、ある技を開発し、披露します。

それは8月11日のこと。ウエストブロンクス、モーリスハイツ地区セジウィック通り1520番にあるアパートに住んでいるクール・ハーク一家。ハークの妹、シンディ・キャンベルは、洋服を買うお金を稼ぐ為に、自分達が住んでいるのアパートの娯楽室・イベントルームを借りてダンスパーティを開催します。

入場料は女性25セント、男性50セント、ソーダ50セント、ビールは1ドル。

DJ担当に任命された兄クライブ・キャンベルはその日、DJ Kool Herc してとして2台のターンテーブルを使い、ダンサーが好む楽曲の間奏部分(ブレイク)だけを次々と流す技を披露しました。

クール・ハークはその技を「メリーゴーラウンド」と命名しますが、これが後にブレイクビーツと呼ばれるようになるわけです。ちなみに8月11日を「ヒップホップの誕生日」としている人もいます。ちなみに現在、このシンディのパーティが開催された娯楽室はスミソニアン協会によって重要文化財に指定されているそうです。

彼はそれから故郷であるジャマイカのキングストンの低音を重視した感性をブロンクスのブロックパーティーに持ち込み、「Herculords(ハーキュローズ)」と名付けられた高さ183cmもある巨大なスピーカーを筆頭としたサウンドシステムを使って爆音のブロックパーティを野外で開催するようになります。

ちなみにブロックパーティの際に使うサウンド・システムの電源は、街頭から勝手に引いてくるのが当たり前で、そのせいで家屋が停電になったりすることもあったのだとか。

この音楽に特化したブロックパーティは瞬く間に若者の間で人気になりました。こういったパーティは、停電や騒音はもちろん、薬物などの犯罪の温床にもなっていたので検挙の対象となっていました。ちなみにパーティに参加することを、若者の間では「Loitering=ぶらつく、たむろする」と呼んでいたようです。

<ブレイク・ダンス>の誕生

ブレイクビーツは瞬く間にダンサーの間でも話題になり、クールハークのブレイクビーツで踊るダンサーが急増します。そんなブレイクビーツでダンスするダンサーのことをハークは「Bボーイ(ブレイクボーイ)」と呼ぶようになりました。こうやってブレイクダンス>の文化が誕生したわけですね。

さて、ブレイクダンス文化が芽生えたと言っても、初期のブレイクダンスは、バレエやジャズダンスなど、多様なジャンルのダンサーが好き勝手に踊っていただけでした。

あの全身を豪快に使う派手なダンスが誕生したのは、1975年以降と言われていて、GrandMixer DXT(グランドミキサーDXT)は、ブレイクダンスの派手な技が誕生したきっかけについて「観客が全員で円を描き、その真ん中でBボーイが踊る。始めは簡単なステップだけだったが、ある時、誰かが手足をすべて使って回ったりしだした。これに感化されたダンサーたちは、何かもっとすごいことをやってやろうと、家で技を考えて披露するようになった。」と語っています。1977年にはRock Steady Crew(ロックステディクルー)が派手な技で活躍していますからスゴイ速度で進化してきたことが分かります。

<ラップ>の誕生

さらにブレイクビーツに合わせてMC<ラップをするようにもなったのもこの辺りの頃だそうです。当時は「ラッパー」ではなく「MC」という存在しかおらず、「韻 = rhyme(ライム)」は存在していましたが、韻を長く連続的に続ける「flow(フロウ)」はありませんでした

最初にブレイクビーツにMCを被せ始めたのは Coke La Rock(コーク・ラ・ロック) とされていて、彼はクール・ハークが最初に開いた妹の誕生日ブロック・パーティにも参加したクール・ハークの集団 Hercoid のMCクルー Herculoids のメンバーだったそうです。(クール・ハークもMCをしていたらしい)

当初は目立たないところで簡単で短い韻を踏みながらMCをしており、主な仕事はMCではなく、薬やマリファナを売ることだったそうだ。今やDJとラッパーの立場は逆転してしまいましたが、当時はラッパーよりDJが花形だったんですね。

ラッパーがフロウを開発し、バトルで技術を向上させていくのは1975年以降からです。

ちなみにMCラキームによると「MC」とは、「Mic Control(マイクコントロール)」もしくは「Move the crowd(群衆を動かす) 」という意味だそうで、観客を言葉で盛り上げる役割を担っていたとか。あと「Master of Ceremonies(司会者)」という意味もあるとか。

アフリカ・バンバータがズールーネイションを結成する

1973年は、アフリカ・バンバータとAmad Henderson(アマドヘンダーソン)が、新しいギャング団「ズールーネイション(Zulu Nation)」を共同設立した年でもあります。

このズールーネーションは、自身が所属していたブラック・スペードをはじめ、サベージノマド、セブンイモータルズ、サベージスカルなどのギャング団からメンバーを吸収し、ギャング集団でありながら、ブロンクスで発生した独自の文化を通して「平和、愛、団結、楽しい」をモットーにパーティをオーガナイズ。この活動がヒップホップ文化の発展と、ギャング時代の衰退に貢献することになります。

1974年
「ヒップホップ」という言葉と概念が提唱

芸術としてのグラフィティが確立される

1974年。この年はヒップホップグラフィティの先駆者の1人である Lee Quinones(リー・キニョネス)がグラフィティを始めた年です。彼は1960年にプエルトリコのポンセの町で生まれましたが、ニューヨークのローワーイーストサイドで育ちました。

日本のSF怪獣映画、特にゴジラの世界観に触発され、ジャングル大帝やマッハGoGoGoなどのアニメにも影響を受けた彼は「The Fabulous Five」というグラフィティのクルーに所属し、主に地下鉄の列車に芸術性の高いグラフィティを残し有名になるのですが、1975年の終わりに、Doc、Mono、Slaveらと共に、史上初となる約13メートルほど連なる列車の全車両にグラフィティを施したのは伝説です。ちゃんと運行していたそうですから凄い。

クルーの構成は、リーと同じくグラフィティの先駆者である Fab 5 Freddy(ファブ・ファイブ・フレディ)を筆頭に、Lee a.k.a Mom 101、Dirty Slug、Mono 105.2、Doc109、Prof 165、OG 2、Blud、Sony、Bob、Slave、Del らが在籍し、当時の彼らは交通警察の最重要人物として手配されていたそうです。

彼は、しばしば「Graffiti is art and if art is a crime, please God, forgive me.(グラフィティは芸術だ。もし芸術が犯罪なら、お願いだ神よ、私を許してくれ)」というメッセージを残しました。

このメッセージが神に届いたのか、彼の作品は世界中から評価され、現在ではホイットニー美術館、ニューヨーク市立博物館、フローニンガー美術館など、数々の美術館で常設されています。

11月12日アフリカ・バンバータが『Hip-Hop』を提唱

1974年11月12日。アフリカ・バンバータ(Afrika Bambaataa)が、<ラップ>、<DJ>、<ブレイクダンス>、<グラフィティ>など、黒人の創造的な文化を総称した言葉ヒップホップ」を提唱しました。

しかし「Red Bull BC One Japan Camp 2016 Special Talk Sessio」ではMr.Wigglesが以下のように語っています。

「ヒップホップ」というのはカルチャーの名前なんかじゃなくて、ただのラップするための語句だったってコトだ。どのMCも「ヒップホップ」という言葉を自分のバージョンでラップしていたんだ。「Hip, Hip, Hop, Hop〜」みたいにね。ヒップホップっていうのは、単なるラップだったってことだ。それをMCがダンサーに向かって言って、ダンサーたちがピョンピョン跳ね(HOP)て踊っていたんだよ、ウサギみたいにね。ハッキリと覚えているんだけど、Village VoiceというNYの雑誌が1981年に行った取材でアフリカ・バンバータに「このカルチャーは何て呼ぶのか」と聞いたときには、バンバータはヒップホップとは答えなかったね。バンバータは(先程のような)ラップを披露して見せたんだけれど、後々出た記事にはそのラップの端々を取って「ヒップホップカルチャー」として紹介されていたよ。当時は僕もそんな言葉を聞いたことは無かったから、変な感じがしたのを覚えているね。

つまり「ヒップホップ」が文化として呼ばれるようになったのは1981年だと。それまでは名前なんてついてなかったと語っています。

しかし、ジャーナリストの「Nard Wuar」が、アフリカ・バンバータに「ヒップホップの誕生日は本当に1974年11月12日ですか?」という質問を投げかけた時にバンバータはこう答えています。

その日は、このカルチャー全体をヒップホップと呼ぶことにしたときです。つまり、Bボーイ、Bガール、MC、グラフィティアーティスト、DJとなどの要素を含みます。私がこれをヒップホップと名付け、そこから動き始めることを決めた日付です。

どっちの証言が本当なのかは不明です。どちらも正しいのかもしれません。ちなみに8月11日とは別で、この日をヒップホップの誕生日とする人もいます。

ヒップホップという名前の意味は、「ヒップ=Cool、何かに熱中している人」「ホップ=弾ける」を合わせたもので、由来はギャング間の抗争や薬物が蔓延し、夢や希望が無いブロンクスの人達に、音楽をはじめ、ダンス、グラフィティ(絵)、ファッションなどを通して人生を豊かにして欲しい。』という願いを込めて付けたそうです。

そう。ヒップホップでここまでバトル文化が盛んになったのは、ギャング間での “殺し合いでの決着” を何とか平和的な形にする為に、揉め事が起きたら抗争ではなく競争で平和的決着をつけるようになったからです。

もちろん発案者はアフリカ・バンバータ。ギャングのトップだった彼は、ヒップホップを流行らせ、ギャング間の揉め事をダンス・バトルにすり替えたのが始まりです。

度々「音楽で世界は変わらない」「芸術は何も生み出さない」と言われますが、ヒップホップはブロンクスの抗争を減らし、人々の心を豊かにし、経済にも影響を与えました。素敵すぎませんか?

1975年
ラップやDJが進化

DJ Hollywoodがフロウを発明

1975年、ニューヨークのマンハッタンを中心にディスコのDJ/MCをしていた DJ Hollywood(DJハリウッド)は、MFSB の “Love is the Message” を使ってライムを長く繋げる『フロウ』を発明します。

のちにDJハリウッドのパートナーであった ラブバグ・スタースキー(Lovebug Starski) もフロウを取り入れます。さらにグランドマスター・フラッシュと活動するようになったことで、ブロンクスの兄弟MC グランドマスター・メリー・メル と キッド・クレオール らもフロウを取り入れるようになり、ブロンクスのMC達はラッパーへと進化したのです。

ちなみにラッパーが「セイホーオ!」と言った後に観客が「ホーオ!」と返すパフォーマンスをやり始めたのもDJハリウッドだと言われています。

DJ Hollywood and Starski live at The Armory, 1979

グランド・ウィザード・セオドアが『スクラッチ』を発明

スクラッチが生まれたのはセオドアが13歳の頃。彼が寝室でDJの練習をしていたところ、音量の大きさに母親が激怒しながら乱入してきたので、慌ててレコードを停止したのですが、その時に誤ってレコードを前後に動かしたことによって誕生しました。

よく「グランドマスター・フラッシュがスクラッチの発明者だ」と言われているのを目にしますが、実際は違います。グランドマスター・フラッシュはスクラッチをDJに取り入れブロンクスに広めた人物で、開発者はセオドアです。

ドキュメンタリー映画「Scratch(スクラッチ)」の中でセオドアは「レコードにあてた手を前後させて俺は思った。こりゃ名案だって。色々試してパーティーで披露した。それがスクラッチさ」と語っています。

グランド・マスター・フラッシュが『スクラッチ』と『MIX技術』を発展させる

産まれて間もない頃のブレイクビーツは、ブレイクの頭の部分に正確に針を落としていた訳ではないので、聴いていると ぎこちない 面がありました。それを解決したのがグランド・マスター・フラッシュ(Grandmaster Flash)です。彼は様々なDJ技術を開発しました。

グランドマスター・フラッシュの本名は『Joseph Saddler(ジョセフ・サドラー)』。彼が音楽と出会う前は、家にある家電製品を解体して構造を調べたり、廃車からラジオやスピーカーを抜き取って修理するような機械オタクで、職業学校では電気技師の科目を受講していていました。

そんなフラッシュはレコードコレクターであった父の影響で音楽にも興味を持つようになり、ブロック・パーティに参加。そこでクール・ハークのブレイクビーツに魅了されたというわけです。

同時に彼はブロンクスの人気DJであったピート・DJ・ジョンズにも影響を受け、彼にDJを学ぶようになります。

ピートはディスコやファンクをスムーズにミックスする技術に長けているDJ。フラッシュはぎこちないブレイクビーツをピートのDJのようにスムーズに出来ないものかと思い始め、DJ機材と技術の研究をするようになり、ターンテーブルとミキサーをDJ用に改造。レコードでブレイクを再生しながら、別のレコードで同じ音楽のブレイクの頭を、ヘッドフォンを使用して検索できるようにしました。

そうして完成させた技術は<バックスピン><カッティング><フェージング>の3つ。これらの技術とスクラッチが合わさりブレイクビーツは格段に進歩します。

(1)バックスピン
レコードを手動で回転させてブレイクの頭部分まですぐに戻れるテクニック。

(2)カッティング
ビート上でトラック間を正確に移動するテクニック。

(3)フェージング
ターンテーブルの速度を操作するテクニック。

グランドマスター・フラッシュは1978年から79年にかけて、ハーレム出身のラッパーであるカーティス・ブローと短期間共にした後、友人のキース・カウボーイ・ウィギンズと、2人の兄弟メルビン(メルメル)と、兄のナサニエル・キッドクレオール・グローバーをMCとして加え、The Three MC’sと名付けました。

1979年
ヒップホップの認知度が広まる

グランドマスター・フラッシュ&ザ・フューリアスファイブ

彼らはすぐにリリックを書き始め、ガイ・ラヒエム・ウィリアムズと、エディ・ミスターネス / スコーピオ・モリスもメンバーとして加わり、伝説的なグループGrandmaster Flash and the Furious Five(グランドマスター・フラッシュ&ザ・フューリアスファイブ)になりました。

そして1979年に、ボビー・ロビンソンが所有・運営するレコードレーベル<Enjoy Records(エンジョイ・レコーズ)>から「Superrappin’」をリリース。ヒットはしますが、まだブロンクスを飛び出すほどではありませんでした

その後に彼らはシュガーレコードへ移籍し、若者のゲットー生活の苦しさをラップした「The Message」を1982年にリリースし、ニューヨークとその近辺だけでも約50万枚を売ることになりますが、これよりも前に成功を収めるヒップホップグループが、シュガーヒルレコーズから誕生します。

ヒップホップ専門レーベル<シュガーヒルレコーズ>が設立、ヒップホップ・ミュージックが世界で初めて商業的に成功を納める

さらに1979年にはソウルシンガーのSylvia Robinson(シルヴィア・ロビンソン)と、その夫Joe Robinson(ジョー・ロビンソン)によってヒップホップ専門レーベル<Sugarhill Records(シュガーヒルレコーズ)>が設立され、同年にニュージャージー出身のラップ・グループThe Sugarhill Gang(シュガーヒル・ギャング)が「Rapper’s Delight」をリリース。

アメリカでトップ40、UKでトップ3、カナダでトップ1を記録し、幅広い層にヒップホップ を知らしめ、ヒップホップ・ミュージックを世界で初めて商業的に成功させた楽曲となりました。

1980年
時代の変化

クール・ハークがDJを辞める

偉人クール・ハークがDJを辞め、レコード店で働き出します。「ヒップホップの礎を築いたクール・ハークがなんでDJ辞めたの?」って思いますよね。

理由としては諸説あるそうですが、グランドマスター・フラッシュは「クール・ハークは急速に発展するDJ技術について来れなかったんだ」と語っています。

グランドマスター・フラッシュも、アフリカ・バンバータも精力的に活動し、楽曲リリースしてヒップホップの道を開拓していましたが、クール・ハークの人気はこの頃になるとかなり薄れていたようです。

その後、彼は薬物中毒になり、精神的に落ちることになりますが、インタビューや映画、イベントにも出演するほどに回復はできたそうですが、目立った活躍はしていません。

1982年
ヒップホップが国外へと広まる

アフリカ・バンバータが国外ツアーを成功させ、「Planet Rock」をリリース。

アフリカ・バンバータはこの頃になると、自らのヒップホップ団体「ズールー・ネイション」を、世界各地で活動する「ユニバーサル・ズールー・ネイション」と改名し、アメリカ国外でのツアーを成功させ、ヒップホップの文化や価値を海外へ広めていました。

そして、同年に歴史的傑作「Planet Rock」をリリースします。この楽曲は、ヒップホップだけでなく、ファンク、エレクトロ、ニューウェイブ、テクノポップなどにも精通していたアフリカ・バンバータだからこそできた作品です。

ドイツの電子音楽ユニットであるクラフトワークが1977年にリリースした「Trans-Europe Express」のメロディと、1981年リリースの「Numbers」のビートをサンプリングして作ったというこの楽曲は、様々なジャンルのアーティストに影響を与えたと言われています。

1984年
ヒップホップ創成期の終わり

<ビートボックス>がヒップホップに取り入れられる

ヒューマンビートボックスの起源は19世紀以降から始まっていると言われていて、民謡、宗教的な歌、ブルース、ラグタイム、ボードビル、ホクムなど、多くのアメリカ音楽で見られる技法です。

Sonny Boy Williamson- “Bye Bye Bird” 1963

ヒップホップにおけるヒューマンビートボックスは、1980年代に誕生したとされていて、1973年にリリースされたRoland社のドラムマシン『TR-55』や、1978年リリースの『CR-78』、そして1980年リリースの『TR-808』といったドラムマシンやリズムマシンの音を口で再現する技術から始まっています。

初期の先駆者には、自称「最初のヒューマンビートボクサー」であるDoug E. Freshがいます。彼は1984年からニューヨークのハーレムやマンハッタン周辺を拠点に活動をしていたそうです。

ハービー・ハンコックがグラミー賞を受賞し、スクラッチが世界中に認知される

スクラッチが世界中に認知されたのは、1984年にグラミー賞を受賞したハービー・ハンコックの “Rockit” がきっかけとされています。

1983年にリリースされたこの曲の冒頭はスクラッチから始まるのですが、グラミー受賞ライブの時にGrandMixer DXTがこのスクラッチを担当したことでスクラッチはTVを通して世界中に知れ渡り、Q-BertやMixmaster Mikeなど多くのDJたちに影響を与えました。

Herbie Hancock – “Rockit” 1983

ヒップホップ創成期の終わり

ここまでがヒップホップ創成期の歴史と起源でした。

1984年にもなるとヒップホップは世界へ知れ渡り、KRS・ワンなどの次の世代が登場する頃ですが、その辺の話はまた別の機会にさせていただきます。

これより以下は番外編的な感じで「ラップの起源」や「あとがき」を記しているので、よろしければご覧ください。

ラップとは。
歴史と起源をたどる

ラップは誰か個人が開発した訳ではなく大勢のヒップホップMC達が、詩人やコメディアン、ファンクミュージシャンらからインスピレーションを受け、DJの時のMCに取り入れたことによってできた産物です。

ラップ・ミュージックは話法から進化したもの

「ラップ・ミュージック」は、滑らかかつユンークに喋る話法「Rapping(ラッピング)」から由来しています。

古くは南アフリカのグリオという伝道者が起源という説もありますが、はっきりとラップの特徴が掴めるのは、奴隷制度の時代にアフリカ系アメリカ人のコミュニティで発生した「Signifying」という言葉遊びから。これが進化してリズミカルに喋る「Rapping(ラッピング)」という技法が誕生したようです。

諸説ありますが、ラッピングの先駆者はジャズ・シンガーのJon Hendricks(ジョン・ヘンドリクス)と言われています。1958年、ジョージラッセルのジャズアルバム「New York N.Y.」のトラック間のナレーションとして、ジョン・ヘンドリクスがリズミカルなポエムを披露したことが始まりで、当時、この新しい試みは賛否両論あったとらしく、ジャズ専門誌以外はナレーションは酷評だったとか。

Manhattan-Rico (Narrated By Jon Hendricks)

ラッピングは、1960年代に活躍したキング牧師のスピーチや、モハメド・アリのインタビュー、詩人ギル・スコット・ヘロンの楽曲、アイザック・ヘイズの“Ike’s Rap”などの楽曲でも聴くことができます。

“韻”は大勢のMC達によって作られた

ラッピングはラップへと変化して行く訳ですが、「ラップのゴッドファーザー」と呼ばれているのがコメディアン/歌手/俳優の Rudy Ray Moore(ルディ・レイ・ムーア)です。

彼が1970年にリリースした「Pussy Belongs To Me」などのネタで披露した話法は、 コーラ・ラ・ロック を始めとしたMC達に影響を与えました。

Rudy Ray Moore – Signifying Monkey

1973年のクール・ハークのパーティから関わるMC Grandmaster Caz(グランドマスター・カズ)は、韻の発生について「次のパーティへの繋ぎやアナウンスをしていたが、それが徐々に高度になってライム(韻)が発生した」と言います。

一説ではクール・ハークがジャマイカの「Toasting(トースティングまたは、チャッティング、ディージェイング、スカンキング)」というビートに合わせて喋る文化をヒップホップに持ち込んだとされていますが、これはクール・ハーク自身が否定しているようで、彼は「ジャマイカのトースティング?違う違う。そこに繋がりはないよ。ラップはジェームス・ブラウンと Lightnin’ Rod のアルバム Hustler’s Convention からだよ。」と語っています。

しかし、アフリカバンバータは「ラップはソウルやロックから来ていると人々は言うでしょう。それはあらゆる種類の音楽から来ていますが、主にレゲエのトースト要素に基づいています。それがラップの始まりです。」と、daveyd.comのインタビューで語っています。

そうです。“ラップがどこから来たのか”は、それぞれで認識が違うのです。

とにかく、こういったユニークかつリズミカルに話す技術が、『Rapping(ラップ)』に発展し、MCの技術に使われ、1973年に誕生したブレイクビーツと融合したことで『Rap Music(ラップ)』または『MCing』が生まれたということです。

ヒップホップ創成期を映像で楽しみながら知る

ヒップホップ誕生と初期をリアルに描いたドラマ
『ゲットダウン』

シーズン2で打ち切りになったNetflixのオリジナルドラマですが、ヒップホップのレジェントである「クール・ハーク」、「アフリカ・バンバータ」、「グランドマスター・フラッシュ」らもコンサルタントとして参加し、かなりリアルなヒップホップを学ぶことができます。

あとがき

1967年まで、アメリカの一部では、自分の曽祖父に一人でもアフリカ系黒人がいれば差別の対象とされていました。67年以降もなかなか差別意識は無くならず、黒人は長く虐げられてきた歴史があります。

そんな厳しい環境の中、人々の生き甲斐として、娯楽として、仕事として、抗争を減らす希望の文化としてヒップホップは提唱されました。今や世界中で大人気のジャンルへと成長したヒップホップは今もなお、アフリカ・バンバータの願いを乗せて成長しているのです。素敵ですね。


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